おはようございます♪
今朝はどんな朝をお迎えでしょうか?
7月なのに気温も低く、梅雨明けもまだな今年・・
自然のリズムを信じつつ
涼しいのは嬉しいのですが心配ですね。
今日は街を歩いて視界に入る
カップル、親子・・・
時期的に街頭演説など・・・
ふとそうだなぁと感じたことを
これを読んで頂いている皆さんと
シェアして行きたいと思います。
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私たちは良く見つめてみると
誰かの何かでいたい…
そんな気持ちはありませんか?
*子供の良き母親でいたい、父親でいたい
*パートナーの良き理解者でありたい
*弱きものの支えになれる自分でいたい
*(親から)愛される子供でいたい・・・など
特別な誰かの特別な人でいたかったり
みんなを先導するような自分でいたいかもしれませんし
(例えば民を守りたい、政治家として国を守りたいとか)
自然や動物を守りたいかも知れません…
身近な誰かの何かでありたい…かも知れません…
それが手に入った、近づけている時には
なにを感じているでしょう…
または何か事情があり
どうしても遂行途中で離れなければならなかったとしたら
何を感じそう…?
例えば、私は離婚した事で
子供に対しての沢山の罪悪感を抱えていました。
どうして「罪悪感」を持ち続けるの?と自問すると
罪悪感があれば「私はこの子の親だと感じられる、母親でいられる」と…
また罪悪感と言う「感情の名前」のレッテルを外してみると
それは私が子供に向けている愛情でもあったり…
→罪悪感=愛情(レッテルの違いのみ。同じエネルギー)
私はとても「母親でいたい」し
「子供への愛情を持ち続けたい」存在ならば…
とことん、それを支持して受け入れて肯定してあげて、
続けさせてあげたくなったのです。
罪悪感を持ち続けていいよ…
罪悪感が無くならなくていいよ…
本当に心から「罪悪感の私にもたらす役割」が見えてくると
体感覚も違ってきます。
私を含め、人間が持つ「誰かの何かでいたい」思いは
それでとても苦しかったり
分かって欲しいとか
そこを離れなきゃいけないときは私を忘れないで欲しいとか
(死が分かつ場合もありますよね)
色々なメッセージがありますが
沢山の声そのものが
なんと愛しく健気なものか…
一生懸命生きている証そのもの…
いつもこの子達(感情、思い、声、記憶など…)に出会うと
無条件のハグをしたくなります。
同じ空で繋がっているあなたと
それぞれの場所で今日もファイティン♡