みなさまこんにちは♩
心理セラピスト、カウンセラーの浦松ますみです。
今日はみなさまは言葉ではよく使っている「境界線」について、本当の意味と自分の在り方とのお話をしていきたいと思います。本を読んでも、講座に行っても知識や情報としては浸透している「境界線」ですが、人生で実用できていることがどのぐらいできているかを一緒に探っていきましょう。
実は人間関係の悩みのほとんどはここが見えてくれば解決できるほど、とても重要なものです。どんな自分がどうして超えられてしまうのか?または超えてしまうのかなど、心理セラピストの視点で解説していきますね。
境界線とは?
境界線とは自分と相手を区別するラインのこと。国に国境があるように、心の境界は目に見えませんが、とても大切なもの。その境界をお互いが尊重することで、心地良い関係を作っていけるのです。ポイントはお互いが精神的にもフェア(対等)な関係であるかどうかです。
相手との関係で自分は対等かどうかを改めて確認してみる
まず、境界線を超えられてしまったと感じる時には何が起こっているでしょうか?断りたいのに断れない、自分が疲れているのについ引き受けてしまった、相手が困っているように見えて、助けなきゃと行動してしまった、みんなが動かないから私がするしかなかったなど・・
これらのケースでも「自分がどんな立ち位置か」「自分のパワーの大きさは相手と比べてどうか」がポイント。よく観察すると、大抵は自分が小さく、力がなく、犠牲者側である事が多くないでしょうか?
私はどんなタイプでしょうか?
境界線にも色々な分け方がありますがまずは基本的に自分がなりがちなタイプを掴んでおきましょう。
1:境界線を越えるタイプ
つい相手に関わりすぎて、親切心や助けてあげたい優しさがあるのですが提案ではなく、アドバイスの押し付けになっていることが多い。過干渉・過保護、ジャイアンタイプ(お前のものは俺のもの)、アドバイザー(これ、絶対に良いと思うよ)などなど・・・
2:境界線を超えられるタイプ
相手から踏み込まれすぎる状態になっている。NOが言えないタイプ、嫌われたくない、断ったら悪い、良い人でいたい、自分はできないからやって欲しい、依存型など・・。またはいつでも受け入れている神聖な人になろうとしている系などなど・・・
3:人と関わりたくなくて頑強な壁を作っているタイプ
自分も頼まないし、相手にも頼ませないし、無関心だったり、何か緊張がある感じ。引きこもっていたり、どこか表面上はコミュニケーションは取れているようでハートが閉じているような感じ、冷たさ、硬い感じなど。
どれも相手によって変化したり、その時の自分がいつも同じではないですが、概ねよくとる番号はどれでしょうか?そして1〜3のどれが良いとか悪いとかでは全くなく、どうしてこの対処方法になりがちなのかを見つめていきます。
実は相手の選択権があれば境界線超えではない
上記の一番の例ですが、もし自分が越えるタイプだなぁと感じても、「相手がどう選ぶか」に自由な選択を与えている状態でしたら、境界線超えではなく対等な関係です。
超えてしまう時にはどうしてそうしたくなるの?
このサプリ、絶対に身体に良いからおすすめだよ〜、とか、ここのお店のランチが絶対にお得だから行った方がいいよ〜!と強く推して、特別の割引カードなどもあげたとします。これ自体には全く問題はないのです。もし、相手が行かなかった時に「あのチケットあげたのに」「見本で私の分のサプリもあげたのに」などと怒りや、悲しみなどが出てきた場合、心の仕組みから見つめていきたいですね。
相手が自分のアドバイスや意見を取り入れてくれないということは、自分にとって何を意味したのでしょうか?どうして悲しみや怒りなどがそこにあるのでしょうか?人それぞれでどうしてもブログで「〜〜だからです」と答えを書けないのは、全員が仕組みが違うからですが、必ず「自分特有の理由」があります。
自分が大切にされない感じ?私が軽んじられている感じ?なんでしょうか?
例えばですが、同じガンの闘病でこの方法を試していたら、もしかしたら大切な家族が延命できたかも・・・と後悔を抱えている方がいるとしましょう。同じ病気の家族を持っている友人とは常に色々な話をしている間柄。絶対に友人に同じ後悔を感じて欲しくない場合はつい、力が入ってしまうかもしれませんよね。
そして友人は違う方法を選び、大切な家族が延命できなかったとしたら、私はどんな感情を抱えるでしょうか?
もし、これがどんなに熱く説明したりアドバイスしたとしても「選ぶのは友人、友人の家族、当事者の全くの自由でOK」がベースでしたら境界線超えではないのです。そして自分の意思で選んだ友人を尊重できたら全然OKなのです。超えたくなる時には相手を弱い、小さい存在と無意識に感じていないでしょうか?
超えられるタイプになっている時
どうして断れないのかを探してみる
相手につい超えられることを許してしまう時、断れない時には何が起こっているのでしょうか?相手の気持ちをとても考えすぎていませんか?またはNOと言った時に相手は自分に対してどう言った思いを持たれると感じていますか?
実は私たち、自我の性質上どうしても相手や社会、権威、自分が自分より上と感じているものに対しては自分が小さくなっていませんか?上司が・・社長が・・・行政が・・政治が・・・など、基本的には自分の方が力がなくて相手に従わなきゃダメ=依存しないと生きていけない、無力な私、もれなく犠牲者意識がくっついてきます。これがダメとか悪いではなく、こういった仕組みがあると言う話です。
もし、自分にはパワーがある、自由に振る舞って全然OK.それで安心、安全が十分に守れると思ったら、余裕を持って「いいよ、やってあげるね」といった断らない私が構築できる気がしませんか?断れないからYESマンとか、相手が気を悪くする、誘われなくなるなどではなく自分が軽やかに「いいよ〜」と負担なく引き受けていたら、それは境界線は超えられていません。これは「自分の意思が最優先、選択権が自分にある」状態です。
自分の責任はどこまで?
バイロン・ケイティーの有名な3つの領域の話ですが人間関係がややこしくなる、苦しみを生み出す時には自分の責任を超えて引き受けた時。自分は常にどこの領域の責任を負おうとしていたかを探してみましょう
1:私の領域
自分のできること、できないこと、自分がすべきこと、すべきでないこと(自分の感情のコントロールは私の責任)
2:相手の領域
その人のできること、できないこと(相手の感情のコントロールは相手自身の責任)
3:神の領域
自然災害、事故、社会現象、会社の倒産、病気の大流行、株価の暴落、天変地異、暴動など、個人の領域を超えたもの。個人でどうすることもできないし、誰かが責任を取れない領域。
苦しい時には漏れなく、「相手の感情の責任」を「私が負わなきゃ」になっている時です
知識で分けられない境界線の例
例えば、相手が小さな子供、自分で何か動けない年配の方、または病気でどうしても助けが必要な場合など、いくら「相手の感情は相手の領域」と言ってもケースバイケースですよね。また、引きこもり状態が長く、社会に今すぐに関われない方の場合など、いくら成人していても経済的に支えが必要な場合もあるでしょう。
3歳の子が迷子になって大泣きしている・・・誰かが転んで怪我をして怖さで震えている・・など、目撃したら自分ができること、したいことが自然と湧き上がってきませんか?線引きや断ち切ることが境界線ではありません。精神的に自立した2人がいてその中で自分がどこまでできるのか、したいのか、選択権が自分にあるか、ないかを感じながらの行動であれば全然OKです。自分が自分を尊重できるものであり、ドライとか冷たいものではありません。境界線は「行動」そのものではなく「自分の心のあり方」です。
自分が自分を心から尊重する=自己肯定感が高い状態
自分の行動に全てOKを出せて、自分が行動の責任や感情の責任を負える感覚が持てる時はどんな時でしょう?
それは自分の上にも、下にも人がいないし、フェアな感じだし、自分に力がある感覚だし、誰かを頼らなくても大丈夫な感覚です。依存がない状態ですし、被害者意識も生まれにくい状態です。実は結構ハードルが高くないでしょうか?
自己肯定感を高める、自己愛を増やすことはある意味、全てを物語っていますが、これができないことが悪いとかいけないのではなく、今の自分がどう言った状態かを自分が知ること=自分を自分が理解する、境界線を「超えたり」「超えられたり」したことにどれだけ『気付ける』かが、実はすでに自分への愛情です。
自分を尊重できなかった時に、それに気づけて、その自分の傷ついていた声を拾えて、対話できたら・・すでにそれは充分な自分へのケアですし、自己愛ですし、その自分を受け入れています。それが一番大切なポイントです。言い換えれば全然完璧ではない、不器用な自分を、自分が受け入れて認めて許して知ってあげることです。すでに自分が自分を肯定しています。
通常の私たちは権威や自分の「上」に無意識に依存している
これは繰り返しになりますが、自我の特性で、最初から「完璧な強い私」「なんでも出来る私」「絶対に大丈夫な私」でいること自体が難しいですよね。もちろん、ケースバイケースで、この分野に関しては「私は大丈夫」だけれどこの分野に関しては「誰かがいないとダメ」な私だったり・・
私たちは様々なものが複雑にミックスされた複合体ですので一色ではないのですが、好き嫌いはれど、大きなものには無意識に力を預けています。国や行政などに結局は従わなきゃと感じたり個人的意見はあってもどうしても「やられる私=被害者の私」はありますよね。
それがいけないのではなく、自分の特性を知っておきつつ、人間関係で苦しい時には相手が大きな存在となっていないか、または弱くて私が守ってあげないとダメな存在に見ていないか(自分が大きくなっているケース=依存させてしまっている場合)をチェックしましょう。相手からのサポートが重くなっていた場合は「自分は無意識に一人では何もできないと感じていたか?」「どうせ、私が決めるより相手の方が正しいよね」と相手にパワーを預けていなかったか、自分の感情の責任を持ってもらっていなかったかもみてみましょう。
元々がそう言った関わりの中で当たり前に生きていると、気づきにくいですし、そもそも境界線の概念すらないことも実は多いです。
人との関わりを持たない状態、厚い壁を持ち続けているとどうなるか
3番目の状態が続くと「言いたいことが言えない」「自分が感じていることがわからない」「コミュニケーションが取れない」など・・・ついには関わり自体を諦めたり、必要最低限しかやり取りせずに心を閉ざして生きていく・・・。こんな状態になるかもしれません。これは哺乳類の私たちにとっては社会科系の新しく発見された「副交感神経」が健全に働いていずに非常に生きずらさを感じています。
自分では無自覚だったとしても(これが当たり前でその人の通常になっている)ますます世の中や人が冷たく怖い存在になっていきます。
境界線で大切なまとめ
自分がどんな行動をとるかが大事なのではなく、心、在り方がどう言った状態かを自分が知ること。その上で自分がしたいこと、出来ることをして、相手に選ぶ権利、決める権利があることを分かっている。これはすでに自己肯定ができていることです。何かが出来る、出来ないではなく、一人でなんでも出来る自分になるでもないのです。
『誰かに助けてもらうとき』と、『自分に力がないから頼るしかない』のとは大きく違うことです。
外側からの行動で決めるのではなく自分の内側に力があるかどうか・・・ないとしたらどうして無いかを自分が分かっていたら大丈夫でしょう。
自分が弱っている時には人のアドバイスも鵜呑みにしやすいですし、依存しがち。それを受け取るか受け取らないかは自分が決めることができていたら=自分で自分の感情の責任をとれていたら大丈夫でしょう。
最終的には全ては自分が自分の責任を負うことしかできず、相手の人生の責任を負ってあげたくとも本当の意味では不可能ですよね。どこまで自分が自分の選択を尊重し、相手の選択も同じく尊重できるかは難しいですが、
大切なのはお互いが「自分にパワーがある」と思えるかどうかです。フェアで横並びの感覚があると本当にラクです。
普段から自分を観察し、何がその苦しみを作っているかの視点を心の仕組みから見つけられると本当にラクなのです。
このブログを読んでくださっている方々はきっと心のことに興味がある方なので、そんな繋がりが本当に嬉しいです。長文をありがとうございます。励みになります♡
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