なかなかラクにならないメカニズム

【なかなかラクにならないメカニズム83】幸せとは何も望むのがないこと

皆さまこんにちは♩

人間関係、家族との関係で生きることが辛く、依存症・過食嘔吐・パニック障害など地獄のようなドン底6年間から抜け出て、長年の職業も変わり、年間1000名の方のお悩みを聞く側に自然に変化した心理セラピストの浦松ますみです。

今日は以前勉強会で溝口あゆかさんから聞いた言葉、ある非二元のティーチャーの格言から心に響いたテーマの題名を精神構造から紐解いていきたいと思います。

自我は常に良くなろうとしている

私たちは朝起きて、すぐに思考活動が活発化し、1日にカウントしたことはないのですが数万?の声=頭の中の思考と共にいますよね。

思考は色々なものを生み出せます。過去も・・未来も・・

常に思考活動と共に私たちは居て、身体はこの自我の思考活動と一体化(同化)しています。

そして、目の前で「今ここで起きていないこと」=「未来や過去」=「頭の中だけで起きているイメージ」を身体を通じてありありと感じることができます。

例えば、目の前で交通事故が起き、3秒遅かったら巻き込まれていたとします。ただでさえ、ドキッとしますが、過去にゾッとするような事件に巻き込まれる寸前で助かったことがあるとしたら、記憶として頭の中でそれを思い出すと、身体がその時のように緊張したり、心臓がドキドキしたり・・息が苦しくなったり・・

また試験に何度も落ちた経験があるとしたら、その時のショックが記憶として思考の中で鮮やかに蘇ると、まだ受けていない、今度の試験もそのイメージを引っ張り出して、絶望したり、自分の将来のストーリーが膨らんでいく経験もできます。

身体を通じて感じるものは本当にリアル。

今ここで起きていないことを「今ここ」に持ってくることができます。そして、本当に体験しているかのように身体は反応できますし、感情も伴います。

思考とは考えること。

考えている時には感情がくっついていますし、常にそれに連動して身体も反応して・・

殆どが「今」ではなく、思考の作り出す過去か未来へ飛んでいる私たちをじっくり観察します。

そして、私たちは常に良くなろう、傷つかないようにしよう、何かを得よう、損しないようにしよう、馬鹿にされないように、人から受け入れられるように、安心できるようになど・・・何かしようと思い続けています・・・

過去から将来をイメージしている

どうしても思考の中で安心を求めて、今、目の前の起きている状態ではなく、思考レベルでの安心で「安心が手に入っている」と身体を通して感じている私たち。

過去のエピソード・・将来のイメージ・・こうしないとこうなる、それは◯◯するべき、それが正しい道・・など正当化した声、正論で常に言い聞かせています。

今、転職を考えているとしたら、猛烈な勢いで思考が囁き、過去のエピソード(この職場で嫌な経験をした記憶)やお給料の額や、自分がしなければいけないと思っていることができないとか、今は条件のいい職場が少ないから自分には無職の期間が長いだろうとか・・

さまざまな思考が「いかにそれが正しいか」を囁き続け、思考の中で安心できる、確実に自分にとって良さそうなものに従おうとしています。

でも全部「思考」。

物凄い勢いで思考に頼って、ここから行動するのが当たり前になっている自我にとって、思考を静かにして自分が本当はどう在りたいのかなど「留まる」ことは苦手過ぎます。

思考の幸せの儚さ・・・

思考は自分が頭の中で作った通り、思い通りが幸せと思っているので、それが全部実現するとか、全てが叶うと安心して、やっと緩みます。

でも思考が探した幸せは、それを保ち続ける必要がありますし、ずっと安心を求めているわけですから必ずそれを得られないと常に不安や怖さが伴ってきますし、他者と比べて焦りや、思い通りにならない怒りなども伴います。

そう思うと、思考が探して欲しがっている幸せや安心はある意味難しく、はかない感じもしてきませんか・・?

思考を頼り切っている私たちは、思考がないところはすごく苦手。

そんなのダメ、そんな状態はうまくいかない・・とも刷り込まれていますよね。

そこで響いたのがテーマの言葉でした。

自我の目線では知らない世界

「思考が思いつかない、知らない幸せとは何も望むものがない、何も必要としない」

ちょっと想像してみましょう・・これってどんなこと、どんな意味なのでしょうか?

何も必要じゃなかったという究極の安堵

もちろん、目の前に危険が迫っていて逃げないと怪我をするとか、犯罪の多い地域で、家を出る時に鍵を掛けるとか、生きていく上で必要なこともありますが、心の仕組みから言えば常に何が良くなるための思考の活動がもし必要じゃなかったら・・・

何も頑張ってこれ以上する必要がないことが深いレベルで自分の中に起きたら・・想像してみてください。

足りないもの、それがないと悲しいもの、寂しいものやそれがないとダメなものが実はない状態を想像してみると・・(ここ、難しいかもしれませんが)その自分は堕落したダメ人間になるというよりは、何か平和や穏やかさに包まれていないでしょうか?

そしてその自分からは自然に「これしたいな」「これが好き」「これは嫌い」などシンプルに衝動が湧き上がり、直感に近い感覚は思考で熟考したものではなく「ジャッジがない行動」として自然に表れていきます。

こんなこと自我は想像できませんが・・笑

いつもの私たち

考えて安心、考えて悲しい、考えて得、考えて絶望

いつも考えている私たちからかなりかけ離れた状態で想像もしにくいでしょうが、思考が知らない幸せは、何かをする必要がない、望むことがない、自然に出てきた衝動に委ね、そこに常に感謝がある、穏やかさがある、もし、よくない結果が起きたとしてもそこからまた次の行動が自然に出てくる・・・

そんな世界を少しでも経験してみたくなりませんか?

また自我は「よくないことが起きる事」も非常に嫌い、避けたいのですが、ずっと良いことだけが起き続けることを保つことの不可能さ、難しさも気づいてみませんか?

私たちは困難が起きても、今、安全な部屋にいて、今は自分を攻撃する人が目の前にいなくて、こうしてここにいる・・という生き延びる強さと共にあることも事実です。すごく頑張って、そしてちゃんと生き抜いてここにいます。

過去に意識が縛られてネガティブが主体の時

こういった状態の時には「今」に留まることも難しいですし、思考を止めることは逆に緊張を強めて警戒してしまいます。頑張って思考を止めるというのも不自然です。

絶望して、悪いイメージしか頭の中に出てこない時には、イメージの中の私はほぼ「無力感」「絶望感」「孤独」・・・など、希望がない状態の塊です。

まずはこの私をイメージの中でしっかりと見つけ、イメージの中でいいので手を繋いだり、抱きしめてあげたり、触れてあげながら「一人じゃないこと」「理解者がここにいること」を伝えてあげましょう。

そして、その状態になる理由があるのですから、過去の体験などが作ったトラウマや、未消化の感情を探し、ケアすることはとても有効です。

恐怖が吹出し中のイメージの私でしたら(トラウマの私などは顕著な例。だからトラウマになったままなのです)、しっかりそのイメージの自分に「今はそこにいないよ」「今はこの部屋の中にいるよ」「今は〜〜年、何月何日でその日じゃないよ」など

まずは、今が安全な場所に体があることを教えてあげます。(まずはそこから)

そして、正気に少し戻れたところで色々な叶わなかった思いや、ショックだった出来事にくっついていた感情などを色々なツールで癒していくと良いと思います。(トラウマはご自身でやるのは難しいので専門家に任せたほうがオススメ)

いつも何かしようとしている自我を、自我が知らない世界へ連れて行ってあげることは究極の安堵につながります。

※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。

あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。

提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)

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