なかなかラクにならないメカニズム

【なかなかラクにならないメカニズム87】健康的な境界線について

皆さまこんにちは♩

人間関係、家族との関係で生きることが辛く、依存症・過食嘔吐・パニック障害など地獄のようなドン底6年間から抜け出て、長年の職業も変わり、年間1000名の方のお悩みを聞く側に自然に変化した心理セラピストの浦松ますみです。

今日は何度も今までのテーマにしてきた「境界線」

健康的な境界線とは?何でしょうか?お互いが自立した関係とはどんな関係?

人間関係と切っても切れない「境界線について」今日は書いていきます。

自我の性質とは?

そもそもの私たち、自我というものは、社会や世界と「自分」を比べたときに、すでに周りの方が大きくて、大勢の中の一人とか、ちっぽけな存在だ・・とか、自分が小さく、周りが大きく感じていないでしょうか?

世界、社会より私の方が大きい、とか、私の方が力があるとか感じている方はかなり少ないと思います。ここでどちらが正しいとか、こうあるべきというジャッジは横に置き、そもそもの自我は常に自分を守り、自分をより良い方向に導こうとしています。

同時に何か頼ったり、何かすがり付くものがない不安だったり、指南を求めたり、正解を探したり・・・

それが悪いとか、ダメという視点を横に置き、そう言った性質がそもそも自我にはあるんだなぁという感じで進めていきます。

自我自体がベース、こう言った性質を持って頑張ってサバイバルしているのですから、当然、依存しやすくて当たり前で、境界線ごえをし合っているのが通常の人間関係とも言えます。

何か、従っていたら安心・・・、逆に、全部自分で決めて、自分で探して、どう生きていくかを決めていく方が不安だったり怖かったり「これでいいの?」と確かめたくなったり・・という部分が自分の中にあると思います。

健康的な自立が難しい訳

誰かに与えられたものをこなし、自分で何かを創り出すことよりも、言われたことを一生懸命遂行して、他者と比べて自分が「よく出来ている」「大丈夫だった」だと、一安心。

「劣っている」「これじゃ、要らないと言われてしまう」怖い・・不安・・など。

この部分で一喜一憂している状態で、精神的に自立し、自分に力があると心から思えることは難しいと感じませんか?

ずっと大人や先生から「与えられ続け」そこで誉められたり、愛されるんだ・・と思い込んでいた私たちは、本当の意味での「自立」は経験が難しい社会の中に生きていますよね。

自分の力で何かを創造し、それをしている時、喜びや安心があって、根拠のない自信や幸せな感覚で生きることはなかなか・・・と思いつつ、自分の中に全部が無力なわけではないし、全部が自信がないわけでもないですよね。

でも・・どこかで私たちは本当は「自分の強さや力」があることも知っています。

隠されていたり、気付けない状態にいるだけとも言えます。

自立した状態で初めて健康的な境界線が見えるとは?

健康的な自立とは一体どう言った状態でしょうか?

私には力があるし、自分で出来る・・と「思えていない」状態をまず観ていきましょう。

依存が必要=無力な状態の例

*言われた事をやるしかない。自分には選択権がそもそもない。能力もないし・・。

*自分で責任を取る自信がない。だから与えられたことをしている方がどこかで安心。ラク。(自分の責任にならなくて済む)

*何でいつも相手は◯◯してくれないの?怒りや犠牲者意識、被害者意識を持ちやすい。

*どうして相手は私を認めてくれないの?(自分が自分を認めていないので他者が必要)

*誰かに頼って、誰かに従う方が(依存する方が)間違いない、安心。上手くいく。争わなくていい。

*私がこんなに困っているのに、どうして助けてくれないの?(助けるのが当たり前)

などなど・・・

私にも、本当に思い当たる声があります・・笑

自分が無力な時には誰かがやってくれて、心に穴が空いている時には、その穴を埋めてくれる人がいた方がラクですし、自分でどうにかしなくて良いって一番ラクちんですよね。そして、ますます、誰かが必要な私に無意識になっています。

これ自体が悪い、とかダメではなく、こう言った状態になっている時に気づければOKです。

バイロン・ケイティの「3つの領域」

とても有名なバイロン・ケイティの「3つの領域」ですが、繰り返し、私も学びを通じて、ここに戻っています。

①私の領域(私の感情は私が責任を取る領域)

②相手の領域(相手にしか相手の感情は本当の意味では責任が取れないこと)

③神の領域(事故、災害、天災、社会現象など・・・個人の領域を超えたもの)

 

今、私は何をしようとしている?ここに立ち戻ります。

例)子供が始めた事業が立ち行かなくなった。私が金銭的にも助けてあげなくてはいけない・・。最近は鬱気味になり、生きる気力を失っている・・。

こんな時に、「自分の最大限」の金銭的援助や、話を聞いてあげて、頼れるスペースを与えてあげることは親としてのナチュラルな衝動ですよね。そして、人生の経験からも何かアドバイスして、子供がこの困難を乗り切れるようにしたいと思うのが情の一つの形でしょう・・。

ただ、金銭的援助がまた、足りなくなったり、安心したのも束の間、また社会情勢が変わり、子供自身もどんなに頑張っても倒産が免れず、また生きる望みを無くしたり、迷惑をかけた自分として罪悪感で生きてしまうとします・・

ここに気付く

どこまで助けてあげたらいいのでしょうか?自分ができることは何?

さて、ここまで読んでいる方は自分がこの親の立場だったら、自分がバイロン・ケイティの②の領域を自分がどうにかしなきゃという状態になっていることにお気づきでしょうか?

これをしたらいけないとか、間違っているとかではなく、そもそも、人生に正解はないですし、その親子の関係性や在り方にも色々あるでしょう・・

ただ、こう言った場合、子供を「非常に無力で弱くて、自分が助けてあげないと生きていけない」と見ていないでしょうか?

また、子供の感情の責任(子供自身の不安や恐れ、未来への不安まで)を自分がどうにかしようと思っていないでしょうか?

もちろん「してあげたい」ですが、本当の意味で一生涯、子供の感情の責任を自分が背負うことはほぼ不可能です。

こういう時の私とは?

私たちはこうして簡単に(特に身内、家族、夫婦、親子、兄弟など)境界線を越えて悩んでいます。他者の問題を自分の問題として本気で解決しようとしています。区別が見えなくて混ざっている状態とも言えます。

悩むのは愛があるから

そうです・・私たちは上記の例などの時には相手の領域だろうが、自分の感情の責任を超えていようが、どうして境界線を越えるかと言えば、どうしてもそこに愛があるから・・。

助けない自分は親として冷たいとか、または自分も無力だからなど、相手の人生の顛末の責任を取ることが愛だ・・と感じてしまいます。

その責任を果たせた自分には力があると思えるものですから、全力で本当の自分の能力を超えて救おうとしますが、自分だって本当はできる範疇があります。

実はこの状態の時の助ける側の自分にも「安定」「健全な見極め」「本当は誰の問題か」がよく見えておらず、自分が不在とも言えるでしょう。

自分不在とは?

自分に力がない時、自分が混乱している時には困っている人を見ると、すごく大変に見えて、弱者にしか見えずに他者の問題を自分の問題に簡単に混ぜてしまいます。これは完全に境界線越え。そして勿論ここには「自分の持っているもの」を相手に映し出す投影も一緒です。

相手の反応、相手の一喜一憂が自分の問題になっているなと気づいたら、そこからやっと健康的な境界線への方向が始まります。

なんでも全部一人でできなくていい

人に助けてもらうこと、人に助けを求めること・・それと、(自分には力がないから)依存するしかない自分になって助けを求めているか、相手が助けることが当たり前として頼んでいるかどうか・・・

ここに留まり、今の自分がどんな自分として存在しているかをチェックしてみましょう。

相手に選択の余地を与え、もし、相手がNOであってもそれを受け入れられている時には自分は相手を尊重している状態とも言えますよね。(勿論、NOと言われたら悲しかったりショックはあります)

NOだった時の残念な悲しい気持ちは私の領域なので、私がケアするものですものね。

健康的な自立した関係

助けを求めている自分も自分が尊重できて、相手の答えや選んだ行動を尊重している自分がいる限り、健康的な境界線をひけた、心が自立した関係と言えるでしょう。

3つの領域は実はすぐに忘れがちですが、とても大切な留まる視点です。何度も振り返り、チェックして気づけたら、それ自体が既に健康的な自立の目線そのものです。

※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。

あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。

提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)

懐かしい記事と今一番読まれている記事

全部自分のせいと思ってしまう時

「自分に正直になる」ことが難しい訳

【保存版:投影の仕組み】現役カウンセラーが分かりやすく解説


心理カウンセラーランキング