皆さまこんにちは♩
人間関係、家族との関係で生きることが辛く、依存症・過食嘔吐・パニック障害など、ドン底6年間から抜け出て、長年の職業も変わり、年間1000名の方のお悩みを聞く側に自然に変化した心理セラピストの浦松ますみです。
今日は、良く感じるセッションの中での反応や、自分も含め過去にやりがちだった「原因探し」「分析」と、本当の意味での癒し、心の傷のケアの違いを一緒に感じていきませんか?
実は一見同じように見えたり感じるのですが、どこが違うのか、何がどんなふうに違ってくるのかなど具体例を用いて観ていきましょう。
顕在意識での辻褄が合っている所
初めにお伝えしたいのは、顕在意識上での「腑に落ちている感じ」「わかった!繋がった!」感覚や、それを感じることでのとりあえずの安心や、モヤモヤが整理されてスッキリすることは、ある意味必要なプロセスの途中として「アリ」だと思いますし、これを悪いこと、間違っているとは思わないでください。
私自身が沢山セッションを受ける側で経験してきたことでもありますし、これによって苦しみが一時的にひと段落し、自分でも呼吸ができる、一息つける気分になり、助けられたことがあるからです。(ただし、一呼吸つけるという意味で)
ただ、本当の意味での根本的なデフォルトが変わっていなければ、(気付いていない潜在意識の仕組みがそのまま)何かきっかけがあれば、そこに傷は疼いて、痛みとして感じたり、モヤモヤやネガティブな反応は当然続いていきます。
最初からストレートに何の抵抗や否定もなくするするとワークできるものもあれば、こうして「仮の安心」「顕在意識上からの安心」も必要なときは十分あります。
顕在意識ではこんな感じに着地
例)母親との喧嘩でずっとモヤモヤが続いている
母は特に役所関連の手続きが苦手。困っていたので(日にちに余裕がないものもあり)私が一緒に行ってあげる約束をすると非常に喜びました。しかし、その日はどうしても都合が合わず、行けなくなると、途端に不機嫌になり「あなたは居ても役に立たない」「ここまで育てて、一番頼りたい時に当てにならない」など・・
実は私は離婚し、1年前から実家に戻っていました。ここで第二の人生の準備をしたり、父の最後を看取ったり、母を助けていましたが、どこかで自分を甘えている、自立し切っていない、母に負担をかけている私という負い目がずっとあります。
母は気性が激しくすぐに二言目には「出ていけ」。その度に「私は迷惑なんだ」「必要とされていない、居場所がない」感覚は毎度感じています。同時に、母は病弱な父をずっと経済的にも支え続け、私を育ててくれたという思いもあります。
母への反抗もあり、実家を出る為に結婚も早かったのですが・・最後に残るのは結局は血の繋がりという私の投影もありますし・・今度は苦労している母に楽をさせてあげたい私もいます。
①顕在意識で答えていた時の辻褄
今回の出ていけ、顔を見たくないを聞いた時に、母の怒りが大きく、所用が終わっても戻りずらく、遅めに帰宅すると、温かな夕食も用意されていて「お帰り、遅かったね」と。
私の解釈:お母さんも言いすぎた、実は娘が本当に出ていくことは望んでいないから、仲直りの印、謝ることが苦手な母の精一杯の歩み寄りなんだ。私は本当に約束した後で行けなくなってしまったが、(母にも期待させたかも知れないけれど)それであんなに怒るのは母が悪い。この人はこうやって良く父とも喧嘩していたし、私も子供の頃から沢山傷つけられた・・・
※これがダメ、悪いという意味ではありません。ただ、ここまででは、その下にある自分の心の仕組みからくる症状は変化していません。
掘り下げて「感情で」辻褄が合ったものとは
この方は、母親との確執や、感情レベルで傷ついていた部分が多かったのですが、同時に母親は苦労を沢山した人、母は子育てに自分の人生を全て使った人、夫と子供のためにずっと頑張った人でもある・・
そんな思いもありました。そして、今こそ苦労をかけた母親の「これをやって」という要求は私がなるべく応えてあげたいし、叶えてあげたいし、何よりももう、安心して幸せに余生を過ごしてほしい・・
こちらが本人もびっくりするぐらい大きな心の声の気づきでした。そして、今回、自分が役所に行ってあげられなかったこと、母親に楽をさせられなかった事での「出来なかった罪悪感」や、「悲しみ」が気付いているレベルより遥かに大きく、自分を深いレベルで責めていました。
顕在意識では学んだ知識上の「母親は境界線を超えて、私がするかしないかの選択権をくれていない」とか「私はいつもこうして傷つけられた」と被害者意識が大きかったのですが、その下にいた私は「母を幸せにしたい」と思っている私が、それが充分出来ていない私・・となって、自分責めになっていたのです・・→大切な意味づけです♡
「お帰り」という言葉、「温かな豪華な夕食」が意味するのは自分が役に立たなくても、母を幸せに出来ていなくても、母が私を大切にしてくれている、必要としてくれているという意味でした。
居場所がここでいいし、ここでゆっくり次の人生の準備をして大丈夫という安堵につながりました。
母と仲良くしたいから「夕食ができていて良かった」(表層の思い)・・・ではなく、私が母を助けてあげられなかったエネルギーが苦しかった事に気づいた時に、温かな、自分への理解につながる涙を流されていました・・(自分が持っていた母への思いを深く感じた)
顕在意識での辻褄と潜在意識が訴えていた声の違いは、本当に身体を通じて、感動の仕方、身体レベルでの納得感、安心につながるので、体験されたら一番わかりますよね。
この温かい感動や、納得で皆さんと繋がれたら嬉しいです。
※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。
あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。
提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)
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