なかなかラクにならないメカニズム

【なかなかラクにならないメカニズム91】介護に携わるケアラーについて①

皆さまこんにちは♩

明けましておめでとうございます!

それぞれの場所で、それぞれの想いとともにどんな新年をお過ごしでしょうか・・?
新しい目標や、計画を立てたり、または今ここにある幸せに温まっていたり・・
または、すでに帰省してそれが崩されていたり、改めて自分の見て行くテーマが刺激されていたり・・

お正月明けに増えるテーマは「歳をとった家族」に関するものや、自分が本当はもっと助けなきゃ行けないのに、できない罪悪感や・・

今日は久々に「ケアラー」=「ケアする側」にいる人の心のケアについて色々皆様とシェアしていけたらと思います。

どなたにも「いつ、その立場」になるかはそれぞれですが身近なテーマですよね。

孤軍奮闘していませんか?

自宅で、または通いで・・自分の身近な家族、大切な人の介護を経験したことはあるでしょうか?

介護する相手を第一に考えて、毎日必死で頑張って・・自分のことは全く二の次、三の次。まずは介護が必要な人の身体や心に寄り添い、へとへとで戻っても、今度は自分の家族などの家事に追われて・・・

もしかしたら、一番ストレスを溜め、一番ケアが必要なのは実はあなたなのかもしれません。

相手は身体的な健康面、心の不調で誰かの助けが必要で、それはあなたにとって見過ごすことのできない人かもしれませんし、立場上、自分がやらねば・・・と決意している場合もあるでしょう・・

私も過去、不登校がきっかけで心身にダメージを負った子供を数年間ケアしたことがありますが、この時には本当に自分もかなり巻き込まれて躁鬱の躁状態で過ごしていました。見た目は凄く動けて過活動状態ですが、心の中は交感神経優位で全く休めて緩めていない状態です。

今もご相談の中で多くを占めているのは、ケアラー側の苦しみ、不安、恐れなど、人生の中でとても身近なテーマです。

そこで共通しているのは「孤独」「将来が見えない不安」「体力、金銭的な不安」「誰も結局は代わってもらえない絶望」など・・非常に辛い自分の姿があります。

まずは「自分」の気持ちの確認をライフワークに

きっと、色々なケアのコラムや、情報の中で「自分の気持ちを大切に」という言葉は聞いたことがあるでしょう・・・自分でも「その通り」と頷いていても

なぜパターンがすぐに変えられないの?

それがおざなりになるのは「自分特有の理由(無意識レベル含め)」があるから。

そこでいきなり「自分の気持ちを尊重」がすぐに出来なくていいので、まずは「気づく」「確認する」「分かっておく」ことだったらどうでしょう?(ここで一旦、しっかり留まることは実は思考的には苦手です。不満です)

しかし、気づいて、自分が良く見えている状態で自分を後回しに行動レベルではしていても、それは何も気づかず、惰性でずっとおざなりにしているのとは格段に違います。

この気持ち、知っていますよね?

「私がなんとか頑張らないと」「私が自分を優先したら、相手が悲しむ」「きっとこれは相手は出来ない」など、この思いは自然に自分から止めようもなく湧き上がってきても、そして行動レベルではいつも通りに相手のケアを第一にしていても

「自分がまた無理してやり通しちゃったこと」「本当は辛かったけど、我慢してやったこと」を自分自身が認知して、分かってあげた状態で行動して「ごめんね、後でちゃんとこの穴埋めやケアを自分にしてあげたいと思ってる」など

自分に眼差しを向けることができていると大分違います。

行動をいきなり変えることは、大切な自分の気持ちを逆に抑圧して頑張って「手を抜く」「休む」ことになってしまい、罪悪感や、後悔など持ちやすくなるケースもあります。

とにかく「無理して」本当は気になっているのに休む、見て見ぬふりをする、断る・・・などは「抑圧」になり結果的にはスッキリしません。(自分がその自分を心から許してOKしていないので)

最初は「したくてしていた」ことが負担になっていませんか?

親の介護や子供が落ち込んで、学校に行けなくなり悩みを聞いてあげることは、初めはやり甲斐一杯で始まったとします。

したくてしていたし、決して相手のことが嫌いではないですし、心から一生懸命ケアしています。でも、いつの頃からか「本当は今日は用事があったのに」「本当は今日は午前だけしか無理だったのに」「自分が影響を受けてしまいそう」「私には手が負えない」など、次第に相手に会うことがしんどくなったり、負担になってくることがあると思います。

「したくてしている」時と、「しなければいけない」になっている時とは、かなり「同じ行動」をしていても負担が違います。

負担が少ない状態でケアはしなければ、いつかは破綻してしまいます。

この当たり前のことが、大切な誰かのケアとなると簡単に境界線ごえが起きて、愛する誰かを責めたくなったり、自分が逃げたくなって距離を置いたとすれば、自分を責める気持ちや罪悪感で苦しくなります。

お互いの心地よい関係=感謝に気づけている関係

これは本当に理想なのですが、ケアする側も、ケアを受ける側も、それが「当たり前」になってしまった時に、良い関係から崩れていってしまうと思いませんか?

助ける側が自分を犠牲にしすぎている時や、ケアされる側が「それは当然」という気持ちになってしまい「頼りすぎる」場合には共依存の関係になっていることが多いです。

共依存になっている時には「必要とされている私」に自分の価値や、喜びを感じているため、相手から頼られるとそれに応えることを辞められません。そしてそれを断ったら、相手にとても酷いことをしている自分と自分を責めるでしょうし、相手が一人では何もできない人として映っています。(相手も同じ)

だから「共依存」なのですが、こういった場合は「誰かを助けること」が辛いと分かっているため、逆に誰かに「助けて」と頼ることが難しく、自分側は一人で抱えてどうにかしようと頑張ってしまいます。

本当は怒っていませんか?

最初は心から「ケアしてあげたい」ところから始まったケアラー生活ですが、終わりがない、先が見えない、またどんどん悪くなっていく、自分の行動が感謝されない、報われない・・・

伝わってない、分かってもらえてない・・周りからも「当たり前」と思われている気がしたら、それこそ怒りは溜まるはず。でもその怒りを適切に身体の外に出すことができないと、何か自分が望んでいない形で相手を責めてしまったり(心の中でひっそりとでも同じ)周りに、恨みを感じたり・・・

被害者意識になるのは当然で、むしろ自然な流れです。

そしてそんな自分を自分が許せずに自己嫌悪に陥ったり・・・ぐるぐると終わりなき思考の渦の中で疲弊していきますよね。

自分自身の経験含め、共依存になっている時には本当に必要なケアより過剰に相手を弱く見て、ケアしてストレスを抱え込む傾向はないでしょうか?

まずは誰かに助けを求めること自体が「健康な判断」であり、悪いことでは全くないこと=むしろ全体のために良いことである視点を持ってみませんか?

感情も、安心してジャッジのない場所で出せるところを探したり、自分の心の叫びを自分が「認知」することは非常に大事です。

自分側が健康的ケアに移行するために

ケアラーが健康になるためには、まずは「自分の気持ちに気づく」「本当はどうしたいのか」をしっかり認知する、そしてどうしてそれができないかの心の奥にある「理由」を探してそこをケアしていく・・・など

ケアラー自身の健康的視点が必須です。

健康なケアラーがいてこそ、ケアされる側も安心していられますし、お互いにとって大変な時間だけではなく、振り返れば「良い思い出」「自分を褒める時間」となるケースもたくさん見てきました。

自分自身も今となれば、自分のあの時の状態や行動は全部許して、その通り、ごもっともと否定がなくなってから・・やっと自分の癒しが進んできました。自分責めもかなり長く引きずっていましたし、自分を本当にまんまる「認める」「赦す」作業は時間がかかります。

おかしいな、自分・・と感じたら、まずは「立ち止まり」何を感じているのかをしっかり掴む時間やケアは必須です。そして「今は上手くいかなくて、報われなくて、終わりが見えなくて、倒れそうなほど辛いね」など

ちゃんと自分を労り、分かってあげるもう一人の自分を育ててあげたいですね。

「ケアする人」こそ、まずは十分な温かな「良くやっているね」と認めて受け入れてあげるスペースが必要です。

 

※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。

あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。

提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)

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