皆さまこんにちは♩
人間関係、家族との関係で生きることが辛く、依存症・過食嘔吐・パニック障害など地獄のようなドン底6年間から抜け出て、職業も変わり、年間1000名の方のお悩みを聞く側に自然に変化した心理セラピストの浦松ますみです。
今日はセッションでも常にポイントとして心に留めておくことの一つが、私たちは普段、自分の思い・感情と一緒にくっついている状態ということ。
これを専門用語?では「同化している」と言いますが、この同化状態で、自分を見つめること自体が難しく、さらにその時に苦しさを伴っているとすると、ますます実は客観視とは離れている状態です。
せっかく自分でワークをしているけれど、上手く行かない場合のヒントをお知らせします。
当たり前すぎて気付けない「同化」
生まれてからずっと、この心の学びをするまで「同化」という概念自体がよくわかっていなかったのは当たり前すぎる事。
もう一つは、知識では知っていても身体を通じて、しっかり捉えることができていない、概念だからでした。
生きている普段の状態が「同化」しているため、ここはトレーニングが必要とも言えますが、日々のちょっとした癖として「同化」に気づくこと、「同化」を外してみることを両方試されると良いと思います。
練習の一例
腰痛持ちの私はここ最近、調子が悪く仕事もままならない状態に・・。初めて行った整体の先生が日常生活から、私の身体の癖まで私以上に気付いて教えてくれて、半年ほど通っていますが、あまりにも良かったので、途中から親も紹介し、2人とも生活の質が上がりました。
信頼や安心できる存在として感じていたのですが、ある時、母が急にギックリになり、すぐに見てもらいたかったのですが、どうしても当日、次の日も予約が取れず・・こんなことは初めてでしたが、「待てない」状態の母を診てくれないというのは、私が何か相手に負担や、嫌われているからなのでしょうか?
普段ならまだしも、緊急の時に断られるとしたら、本当は来てほしくない患者なのでしょうか?結構、この時、ショックを受けました。母が可哀想です。
こんな風に、出てきた「会話」をそのまま書き出してみます。
自分の中での当たり前とは?
例えばこの上記の例でいえば、「緊急時は何はさておき、優先して貰える」という思いを持っているとしましょう。
こういった社会通念的にも「当たり前だよね」というものは特に難しいのですが、絶対に見て貰える前提で「断られる」とすると、そこに色々な相手から見た自分への意味づけが出てきます。どんどん加速し、力を持った生き物(モンスター化)になります。
⚫︎先生の笑顔や、母の紹介は本当は負担だったのだ
⚫︎親切なのは「通常」の場合だけで、本心は冷たくて、事務的な人なんだ
⚫︎私はいつもすぐに相手を信じて良い人と思ってしまう・・何度もこうして裏切られてきたなぁ・・馬鹿な懲りない私。
⚫︎人はいざとなると手のひらを返すものだ
などなど・・・
また、前にすぐに見てもらえた経験などがあれば、尚更、今回の態度にさまざまな憶測がくっ付いてくるでしょう・・。
そして、次に同時に湧き上がってくるのは
自分=嫌われている人
自分=嫌われていることに気づけない馬鹿
自分=同じようなことを繰り返す成長できない人
など、自分が上記そのものになって、話はどんどん膨らんでいきます。
これが悪い、とかダメなのではなく通常の私たちの状態で、カフェトークなどではここにさまざまな相談相手の「当たり前」も追加されて大きく膨らんでいきます。
私たちが良くする「どうしたらいいか」や「あの人は〜〜な人」など決断してしまうことは何を意味しているでしょうか?
自分の見ている世界が真実という前提に「待った」をかける
変な言葉ですが、自分の見ている、感じている世界に、今までどのぐらい「待った」をかけた経験があるでしょうか・・・
そのぐらい、これ自体が自我にとって不自然で、意味がわからないこと。
そして思考的には何の面白味も、トクな感じもしませんし、何かが得られるといった安心感もここにはありませんが、
実はこれをしていないから「ストーリー」を爆走したまま、苦しみや不安も同時に抜けられないのです。
苦しみのアンカーを探す=癒し
あまりにも、当たり前すぎて最初は戸惑い、違和感、ズレなど感じるかもしれませんが、自分が無意識に作り出して「住んでいる世界=ストーリー」から目覚めていくことが実は究極の安堵、自由、ラク、平和、愛・・に繋がっていきます。
苦しみを自然に「私のもの」として所有し続けているため、普段の自我、いつもの私たちは「どうしたらいいか?」という方向に走ります。
原因探しをしても「見つかっても」それは「在る」ままなので、スッキリ感や、心底の安堵などは難しいかもしれません。
アンカーとはイメージとして「気付いただけでは無くならないずっと止まっているエネルギー」「理由があり、存在の必要があるエネルギー」
ここがあるから、変化しないし、長年消えていない感覚です。
たまに苦しみ自体がそんなに深刻ではなかったら、見つかって分かったことで楽になると思いますが、セッションにいらっしゃったり、何年もの生きづらさを抱えていらっしゃるケースは、「気づいただけ」では全部が解決・・にならないでしょう・・
トラウマなどは非常にここに当てはまります。
今、ここにあるものを観る
シンプルに、「自分のもの」としてではなく、何があるかを見ていくことは何を意味しているでしょうか・・
実はこれが目覚めの視点、気づきの視点=自我の視点ではない状態であります。ありのままのシンプルな、何も解釈や意味付けのない目線であります。
苦しみを「自分のもの」として所有しないけれど、実際に「苦しみはあるね」と認知して、無いものにしない=あるものは否定したり、抑圧しないでいる瞬間はまさに目覚めの視点、気づきとしての視点と同じでしょう・・
そしてそこにある「私のもの」としていた苦しみのアンカーを探していく作業が気づきの問いかけです。
気づきの問いかけがなぜ難しいかといえば、自我の視点を外して「ありのまま」に見ていくことが自我自体が経験がないからです。目覚めの視点で自我を見て行くことは、自我が気づかない潜在意識のアンカーを探して、自我を解体していく作業だからです。まさに自我の「苦しみからの目覚め」「自我そのものからの目覚め」の作業と言えるでしょう。
ただ、これは練習を繰り返すことで誰にでも得られますし、段々と続けていくことで掴めてきます。
あゆかさんからの「気づきの問いかけ」で私自身が本当にラクになり、また一緒に学びを続けて来ている仲間たちも次々に気づきをシェアしてくださり、安心や平和や緩みを増やしていっています。
一緒に自分の苦しみのアンカーを探し、そして気づきの視点から自我を、人生を眺める経験を(目覚め)していけたら嬉しいです。
※現在、溝口あゆかさんの気づきの問いかけ講座は、1クール終了したばかりですが、こちらをご参照ください。私もアシスタントとしてグループページで皆さまの質問に応えるサポートをしております。
※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。
あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。
提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)
お勧め過去記事(投影シリーズ)