友だちとの関係

反対意見は「和を乱す悪いこと?」

こんにちは♩

心理セラピストの浦松ますみです。今日はよく聞かれる皆さんの声の中から「和を見出してはいけない」「その場の空気を読まなければいけない」「察するべき」「争ってはいけない」など・・・

この思いがあることで、本当はそれに賛同していないのに、許していないのに、心が晴れていないのに「本当のことが言えなかった」経験、ありませんか?

今日はこう言った行動が実は何を生み出しているかを一緒に見つめていきましょう。

 

反対の意見は悪いことなの?

人数は多くても、少数でも結局同じですが、相手と意見や考え方や正しさが違う時は経験したことがありますよね。

そんな時にナチュラルに「でも、私はこう思うよ」とか「こっちのやり方はどうだろう?」とか「私はその人が悪いと思わない」など言える時と言えない時とありませんか?

 

では自分の気持ちが言えるときはどんな場合が多いでしょうか?

 

相手と争っていない時

もし、相手と全く違う意見で、しかも、相手の正しさや良かれを否定するような「言葉上」は表現になっていても・・・そこに「戦いモード」「戦闘態勢で絶対に相手より上にならなきゃ」「私の方が正しいの」のエネルギーがなかったら・・・

どうでしょうか?

もちろん、表現上は「違う」のですが同じ違いでも、「否定」のエネルギーでなければ、それは刺々しさや、和を乱してそこにいる人を嫌な気持ちにするとか・・・そう言った感覚は減る気がしませんか?

 

自分の気持ちに水をさされたような言葉だったとしても、相手が「どうしてそう思うの?教えて?」「自分は〜〜と感じるけれど、これってどう思う?」

 

お互いがお互いの気持ちに対して「選択の余地」を与えていたらどうでしょうか?

 

私たちは「コントロールされる」「従わなきゃいけない」など強く感じるほど、絶対に自分を守る必要が出てきてしまい、つい相手に対して責めるエネルギー、または攻撃的なエネルギーを持ってしまいます。

 

これは表面では優しい笑顔だったとしても、言葉上は帳尻を合わせていても、立派な「反抗」であり、「攻撃」でもあります。心の中でひっそりでも、そうなんです・・笑

※これがいけない、ダメでは全くありません

 

どうして相手より強くないといけないの?

そもそも、私たちは(誰かと比べて)上手にできなきゃ、下になってはいけない、分かっていなきゃダメなどと思うのでしょうか?

小さい時から両親などからも「強くあれ」「上手くあれ」「賢くあれ」など言われて育ちましたが、どうしてその必要があるのでしょうか?

そうしないと「負ける」「やられる側になる」「服従しなければいけない」「小さくて弱い自分になってしまう」など、ここはもう全員が色々な理由を持っています。

あるクライアントさんなどは職場でいつも自分が「マウントを取る側」だと感じていましたが(ご本人は自分が攻撃的で、むしろ誰よりも強くて結構それなりにできている感覚だった)、実はどうしてその行動に出ていたか・・を見つめてみると

「下側になってしまったらずっと下と見られてしまう」「自分には力があると思わせないと、相手から使われる人間になってしまう」など見えてきました。

これはどう言った意味でしょうか?もし、一時的に相手が大きく強く出ていても、本来の自分自身が動じない強さや芯や大丈夫感や、怖さなど持っていなかったらどうでしょうか?

この方もそのもっと奥にいた自分は「いつも本当はビクビクしていて、絶対に負けたらダメ」と信じている弱い自分がいました。

デフォルトが弱い自分で、弱い自分はみんなから使われる、騙される、踏みにじられるなど思い込んでいたため(信じ切っているビリーフ)絶対にこの自分を感じさせない正反対の行動が「必要」になっていました。

ふ〜〜、人は複雑ですね・・。

 

自分自身の基盤を知ろう

まずはデフォルトにある自分=普段は顔を出さないけれどいつも基本になっている自分像はどんな私でしょうか?

ここがまずはどんな私かを知ることは、自分ケアや癒しに大きな意味を持つでしょう。

そして、その自分像が「好き」か「嫌い」か、または「OK」か「NG」か、「感じてもいいか」「絶対に感じたくないか」「認めていいか」「認めるなんてとんでもないか」など・・

否定や抑圧系のエネルギーがあるか、ないかをチェックしましょう。

例)いつも忘れ物が多くて、先輩からは「信用できない」と言われている。セルフイメージは「私は抜けいているゆるい人」

 

この自分像がOKな場合:

いつも怒られるけれど、誰かが助けてくれたり、逆に他者に厳しくないから友人が多いし、気楽にみんなが愚痴を話したり、私も聞いてもらえて、本当はもっとしっかり者になりたいけれど、これはこれで私らしさだと感じている。

 

この自分像がNGな場合:

抜けていてゆるい私だといつまでも先輩から信頼を得られないし、出世できないし、何しろ、自分自身がこんな自分が好きじゃない。他の仕事ができるAさんより同期なのに置いていかれているし、自分が自分を守らなきゃ、誰がこの私を受け入れてくれるんだろう・・・。そのうちに職場で必要ないから出て行ってと言われたり思われるに決まっている・・・。親もいなくなったら、誰も私を養ってくれない・・・。

同じようにセルフイメージが「私は抜けていてゆるい人」でも、受け取り方が違うだけで生き辛いか、そこそこ生きやすいかがこんなにも違うのです。

 

受け取り方は「解釈」の違いで決まる

こうして同じセルフイメージを持っていても、受け取り方=解釈=自分への眼差しが違うと、こんな風に人生が生きやすいか、生き辛いかが変わってきます。

これは例え、友人が心を込めて「そんなことないよ」とか「大丈夫だよ」という温かい励ましや、同意を得たとしても、心からの晴れは続きません。なぜならは「自分が自分をそうみている限り」ずっと自分からの眼差しを避けることがでいないからです。

 

自分自身の自分への眼差し=この解釈を自分に厳しいままでいくのか、優しい眼差しに変えることがナチュラルにできるかがポイントです。

 

無理やり「思い込んだり」「変える」は続かない

例えば自分の容姿にコンプレックスがあってすごいダイエットをしたり、髪型を変えたり、メイクを変えて自信を持つことは一時的には効果は確かにありますよね。

まずは見た目からも大切ですが、見た目は得られても、その外見を保っている中身の私は以前のままですと、外見が保てなくなったり、みんながそれに飽きて褒めてくれなくなると、また何かがきっかけで心が疼いてくることもあるでしょう。

素敵な尊敬する人の言葉や、本の一節が自分を支えてくれることも経験がありますし、それもあった方が良いでしょう。

が・・・

ここでの変化は顕在意識上の5%ほどの部分なので、(ないよりマシですが)一番確実で安定してくるのは潜在意識の95%の部分での変容にはかないません。ただ、ここは気付きにくいエリアですし、長年のパターンなどが刷り込まれている場所でもあるので

場合によってはすぐに即効での変容が難しいケースもあります。(長年持ち続けているビリーフなど)

しかし、私自身の経験からも絶対に私は変われない・・・など諦めていた私が、体験を通じて変化していますし、人格が変わったほどトリガー(きっかけ)に関して反応が変化しています。絶望していたときはどうしても生きている意味が感じられないので、常に死に方を検索してばかりいましたし、逆にすごい頑張りすぎて本来の自分と真逆の行動を無意識にとっていました。

例としては、本当は仕事が嫌いで休みたいのに、誰よりも頑張って結果を出そうとしたり、過活動な躁状態で見た目が「出来ている人」「充実している人」を無意識に演じていたり・・・

でもそれが必要な人生だったのだと今だからこそ、過去の私を眺めることができるのですが、最中は「全く自分がどんな状態か」が分かっていませんでした。

 

本当の自分を見ることが怖すぎる時

結局、本当の自分を簡単に見ることができる段階だったら、回復にもそんなに時間もかからないかも知れませんし、スルスルと癒しが進むでしょう。

自分で自分をケアすることが比較的簡単に進めることができると思いますが、自分で何か奥に苦しんでいる自分がいるらしいけれど、そこを感じることに危険な感じ、怖すぎる感じ、足がすくみそう・・など無理な場合は、プロに任せた方が早いです。

私も、最初は自分ではとても一人でできなかったのでお任せしつつ、自分がだいぶ回復してきて、自分の姿を見れるようになってから・・そこで初めて自分でセルフワークが進められるようになりました。

人に任せること自体が怖い

人を信頼できないなども立派なテーマとしてあえて信頼できる方に丸投げしてしまうのも一つの方法です♩

※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています。

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