皆さまこんにちは♩
人間関係、家族との関係で生きることが辛く、依存症・過食嘔吐・パニック障害など地獄のようなドン底6年間から抜け出て、長年の職業も変わり、年間1000名の方のお悩みを聞く側に自然に変化した心理セラピストの浦松ますみです。
今日はある方のメッセージを聞きながら、頷いた事を書いていきたいと思います。それは「平和」「安心」を求めているけれど、自我って本当に刺激や変化、また「もっと、もっと」が好きだし、同じ所にいる=成長が止まるとか、置いていかれるなど・・・
自我は常に戦って「勝つ」「出来る」=「安心・安全」であることに意義を見出している気がしませんか?
ずっと「成長し続ける」事が正しい・・と信じていた私たち
小さい頃から、「これが出来るようになったのね」「ママを安心させてくれて良い子ね」
誰かと比べて「◯◯ちゃんより頑張ったね」など、「良くなること」「出来るようになること」「親を喜ばすこと」など・・・が良き事として意識の中心にありませんでしたか?
先生も、親も・・・そして自分自身もずっと「成長して」「出来るようになって」初めて安心できて、余裕が持てて・・
でも、今日改めて感じたことは
平和ってきっと自我にとってはつまらなくて、退屈で無ことなのだ・・と言うこと。
刺激を求めるように作られているし、戦いに勝ち続けることが大切と教えられてきたので、「平和」を求めているようで、実は本当の平和が気付きにくく、目の前の当たり前の風景や在るものはつまらなく、魅力を感じなくなっているのかも・・と。
そして、何より次々、終わりがないことも・・。
知りたい、学びたいはどんな自分から来ている?
学びも、知識を増やすことも、純粋に「これが好き」「興味が尽きない」場所からのパッションでしている時と、それがないと何かが欠けている、劣ってしまう・・など不安や恐れベースでしている時とでは、「行動レベル」は同じでも、全く中身が違うものであります。
探しているものは目の前にあった・・・とか、実はシンプルなことだった・・と言うメッセージは歌の歌詞や、アーティスト達などからも昔から伝えていますよね。
また、青い鳥のチルチルとミチルの話を思い出すと、幸せや平和って実は外に探しにいけば行くほど得られるように感じるので、たくさん求めて、「見つけた!」と思っていたけれど・・「違ったんだ」・・・「安心が続かない・・」
いろいろな経験を経て・・初めて「これだったの?」「すぐそばにあったんだ」と気付くストーリーは、どなたの中にもそれぞれ意味をもたらせて、響くものがあると思います。
私たちはドラマティックな旅好き?
どうしてこんなに複雑に絡み合っているの?どうして、大変な事が続くの?など、人生が静かで簡単じゃない方達にとって、求めているのは平穏のはずなのに・・と言う話はよく聞きますよね。
ひっそりと静かに暮らしたい・・小さなささやかな幸せを感じたい・・と思いつつも、もしかしたら・・自我の特性として、波乱万丈とか、ドキドキが嫌いじゃない部分があるのかもしれません。
テレビや本のストーリーも、争いや、策略や、困難があっても、打ち勝つ、最後には乗り越えてめでたし、めでたし・・と言う流れが大勢の人々に好まれているとしたら、自我は実はドラマが結構好きなのもしれません。
激しいドラマに価値や素晴らしさを見出したり、困難から帰還する話に涙したり、安堵を感じたり・・
生きている間、一切、起伏のない、凪のような動かない人生ってどうでしょうか・・?
私たちは、多かれ少なかれ、色々な経験で感情が動き、出会いや別れで自分という存在を確認し、「存在している私」を私が大切で愛しているから「より良いもの」を与えてあげたくなっている部分もあると感じませんか?
実は自我は自分のために「傷つくこと」「大きな損害を与えること」は決してしたくないと思っていて、その視点で自分が自分を守っていきたいと活動しています。
それでも、実際には悲しい経験や、身体がショックを受けるような出来事が起きてきますが、ドラマ自体が「生きている証」とも言えるのだなぁ・・としみじみ感じています。
どのクライアントさんの「ドラマ」も本当に深刻で、悩みは深く、切実なのですが、そこに至る経緯や、様々な頑張りは誰よりも真剣だったわけですから「気づいて」労いたいし、讃えてあげたいですね。
私が私の素晴らしいドラマを肯定し、自分を褒めてあげられたら・・そこはチルチルミチルの安堵のエンディングです。
※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。
あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。
提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)