皆さまこんにちは♩
家族、自分と自分との関係などで生きることが辛く、依存症・パニック障害など地獄のようなドン底6年間から抜け出て、職業も変わり、年間1000名の方とセッションをするまで変化した心理セラピストの浦松ますみです。
今日は「自由になりたいんです」・・・と言うご相談がそれなりに多い中、
本当の自由と、苦しい自分が想像した自由を比べてみましょう。
苦しい時に想像する自由とは?
例えば、今、子育てが苦しくて、もう、子供に振り回されたくない、この終わりのない毎日から抜け出たい、でも子供とは縁が切れないし、一体いつまで続くんだろう・・
こんな悩みの中にいる方を例にしていきましょう。
私もこの地獄のような経験を6年間、その後も数年間ずっとひきづっていましたし、おっしゃる通り、子供との関係も自分が生きている限りどこかで繋がり続けるものだと感じています。
子供が約束を守ってくれない、朝の支度が必ず修羅場化する・・・学校で人間関係で上手く馴染めずに学校に行けなくなっている・・・家で暴れてしまう・・相談されても自分が解決できない・・誰に聞いても解決がない・・・
家の物を盗んでしまう、家の外で盗みをしてしまう・・・誰かを傷つけてしまう、自傷してしまうなど・・・自分のイライラもすぐに勃発・・・恐怖も直ぐに出てきます。
バリエーションは無数ですし、お母さん本人にとっては終わりのない苦痛の毎日でしょう。
朝が来るたび「目覚めたくない」「このまま人生を終わりたい」などがよぎる事も全然ありだと思います。(私は常にグラスの縁を歩いていて、たまたま実行しなかっただけでした)
苦しさから見る自由とは?
苦しすぎる時に叫ぶ「自由になりたい」「もう終わらせたい」は非常に極端なイメージを持っています。
子供のどんな姿を見せられても、自分に攻撃が来ても、自分は気にならないとか、自分は常に子供に優しい思いやり溢れる存在として振る舞うことができるとか
夜も子供が起きていても全く心配せずに安心して眠れて、朝も元気に起きれるとか・・
また、周りの目も気にならない、夫や義両親、ママ友、学校の先生などの事も気にならなくなる・・など
極端なことを想像します。
そしてそうなりたいと叫びます。
分かります・・そりゃそうなりますよね・・・それだけ苦しいからこそ、こう言った想像をして、それになりたい、それが欲しいとなる訳です。
苦しい時に望んで想像する「自由」はこんな感じです。
本当の自由とは?
苦しい時の自分は実は真の自由は想像しにくい状態です。
誰かを酷く憎んでいる時、怒りを持ちすぎている時、または悲しすぎて息が苦しい時などは、その状態が全く消えているんだ・・と想像しがち。
「このワークをしたら、トラウマを解消できたら、もう、相手のことや状態が全く気にならなくなるんですよね?」「貯金がなくても不安がなくなるんですよね」「動じない自分になっているんですよね」
どなたもそう仰います。
誰かを憎み続けるほど、実はエネルギーを使い、疲れることはありませんし、本当は不安なのに元気でいなければと抑圧する・・実はそう言った状態の時には「自分が一番囚われています」
ただ、囚われ状態の時、何かに非常にこだわりすぎている時には必ずそこに理由があるので、その理由を十分に深いレベルで理解し、受容し、赦しが入ってこないと(思考レベルだけではなく、感情レベルです)
真の自由に近づくことも難しいのです。
実は深い感情レベルでの、身体で感じてシフトが起きるレベルでの理解に進んだ時に、苦し時に欲しかった「自由」と「これでいい」「これで十分幸せだ」と感じる【自由の質】が違うことに気づいてきます。
苦しい人間が想像したものは限界がある
そもそも、私たちは人間という自然の中に派生して存在している生命の一つの形。
無数の免疫力や、戻る力、自然の生命の力を本当は持っています。
生命が創り出すものが自分そのもの。
苦しい自我の視点からでは、限界があるのです。
非常に切り離された分離した苦しい視点での欲しいものは、本質の力、生命力そのものからかけ離れた抑圧されたものが生み出している産物。逆に硬さを感じませんか?
どこかに「それを絶対感じたくない」という否定感覚、嫌っている感じなどが含まれています。
子供が暴れていても気にならないとか、子供が自傷しても平気で冷静に行動しているなど、実は不自然であることにお気づきだと思います。
本来、生命として「心配して影響を受ける」ことは自然のこと。
ただ、ここに自分が疲弊しすぎて自然から離れてしまった自分が、もがいていることが苦しいのです。
健康的に心配し、健康的に子供に関わり、結果や状態に固執しすぎずに、距離を保ちつつ、相手を見守る力を持てたら・・・どれだけ自由でしょうか・・
そこにどんな自分が存在できている?
実は、欲しい状態を手に入れる事ではなく、【今の自分の在り方】に気づいていることが【真の自由への第一歩】です。
どうしてこれが苦しいのか、この状況が自分にとって何を意味しているのかをわかっている時にはかなり落ち着いて自分をホールドできています。
もちろん、こうなりたい、こうありたいなどの希望が叶い、状況が好ましい状態だと「自由さ」もそこにありますが、どうして自由がここにあるかといえば「否定」がないからです。
否定・嫌だ・嫌い・許せない・認めたくない・・・などなどをまとめて「否定」とここでは呼んでいますが、否定があるところに真の平和(自由)はないのです・・
今の目の前の状況は決して好ましくない、実は辛いものだったとしても、それをみている自分にもし、「何かしらできる感じ」「その状況を深く理解している自分」がいたとしたらどうでしょうか?
例)何度もパートナーから傷つけられ、リレーションシップそのものに「諦め」を持って、もう誰とも付き合わなくてもいいや、もう十分恋愛はした・・と、誰ともお付き合いをしないことで誰にも傷つけられなくて「平和」を維持しているケース
状況そのものはもう、苦しみや、心配が起きないので一見平和、一見もう傷つかない大丈夫な私になっていますが
実は「絶対に傷つく私」は残ったままなので、本当の意味での自由に選んで今の自分になっているというよりは「傷つかないための状態」を作っているから平和でいられる状態なのです。
これがダメとかいけないという意味では全くなく、「真の自由」とは抑圧がない状態を指しています。
自由かもしれないけれど、心の奥の方ではパートナーシップに対して、何らかの否定的な自分がまだいる状態ということをどこかで知っておいてあげることが良いと思います。
真の自由はそこにある全てに対してどのぐらいオープンに、受け入れているか、好ましくない状況をどのぐらい赦しているか、またある意味自分がどうにかしなきゃというコントロールを手放しているか(手放せることがいいのではなく、ここが自然に・・と言う意味)、否定感があることに気付いて、その自分を見守っている目線があるかどうか・・・
自分の「こうしたい」と言うニーズがどのぐらい落ちていないか(落ちているか)=心の無意識での「愛の飢え」がどのぐらい埋まっていないか(埋まっているか)
自分のここをいつもチェックしてあげられたら、すでに「かなり自由」だと思います。
※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。
あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。
提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)
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