なかなかラクにならないメカニズム

【なかなかラクにならないメカニズム80】陰口が楽しい時

皆さまこんにちは♩

人間関係、家族との関係で生きることが辛く、依存症・過食嘔吐・パニック障害など地獄のようなドン底6年間から抜け出て、長年の職業も変わり、年間1000名の方のお悩みを聞く側に自然に変化した心理セラピストの浦松ますみです。

今日は皆さんが一度や二度は経験したことがあるであろう「誰かの陰口、悪口」を言っている時の盛り上がりと、その時に自分はどう言った状態だから心地良いのか(本当の意味では苦しい自分がいる)を解説していきます。

自分のエネルギーがこう言った他者を責めたり、状況に怒りを感じている時にはどんな自分がそこにいるでしょう・・

そこに満たされている自分がいる時=愛に立っている時

プライベートな話ですが、最近、ほぼ人生を東京で生きてきた私は移住をし、地方で生まれて初めて暮らしています。

最初は初めての土地、初めての地方・・・と言うことで全く予想がつかずでしたが、実際に暮らしが始まって感じたことは「どこに住んでいても、私は私なんだ」と言うこと。

場所が違うだけで、同じような生活が流れ、むしろ空気や水が美しく、空が高く、緑が多いので身体は喜んでいる様子。

ただ、私の場合は仕事がどこでも出来ると言う条件があるため、職場の移動や通勤などがあればまた話は別でしょう・・・でも、体験的に「どこで暮らしても、私がここにいるんだ」と言う実感は新鮮でした。

ある晴れた日、東京でも大物のシーツなどは時々、乾燥機ではなく物干し竿で乾かしていましたが、地方の今の暮らしの中で同じように同じシーツを干した時、ふと目に入った青空が広くて、白いふわふわした雲が美しくて、急に幸せ感や感謝が湧き上がりました。

このシーツを干す作業は同じはずなのに、とても優しい、ありがたさを感じている私はその時に誰かの陰口や悪口で盛り上がることは到底無理。心地悪いし、全然盛り上がれません。

他者を責めたり、怒る必要のない状態になっています。

誰かや何かを責めたい時

これも自分自身の経験ですが、自分がひっそりと抱えていた怒りや、不満をふと誰かも漏らした時に「そうだよね〜」と共鳴し、そこからずっと言えなかったことが出せる安心と、出したかったネガティブなエネルギーが思う存分暴れまくって盛り上がる時間はないでしょうか?

特に、心のことを学ぶ前には女子で集まれば大抵こう言った話題です。そしてそれがいい感じでみんなの連帯感や、仲間意識を強め、「また集まって話そうね〜」と解散しました。

夫のこと、子供のこと、舅や姑問題、職場での嫌な人、パートナーや、友達・・・などなど・・人間関係の中でいくらでも話題にできる人は出てきます。

こう言った時の私は心の中に平和や、安心や、信頼や繋がりが「あるようでなかった」と思います。

どうして楽しかったの?

そう言った繋がりで仲良くなった人たちと目線が同じだったから楽しかったのだと思います。この「目線が同じ」と言う意味は「心の状態が似ている」とか「何かしら同じような抑圧がある」とか「今、平和じゃない」など、愛から離れていると言うこと・・・とも言い換えられるでしょう。

 

常に愛にいろ、とか、常に愛から見ることが正しいとか偉いと言う意味ではなく、どちらも経験して・・と言うより、どちらかといえば圧倒的にネガティブな不平不満、自己憐憫、怒り、悲しみ、虚しさなどが多かった私は、過去、振り返ればずっと誰かや何かに不満を持っていて

それをどうしたらいいかが分からないから、似たような目線の人と愚痴や不満を言って盛り上がって・・そして実はその後に虚しくなったり、その人と疎遠になったりを繰り返していました。

また、これだけ人の悪口を言うと言うことは、自分も影で言われているかも・・と言う不安も同時に常にどこかにあり、段々と様子を見て話す自分にもなっていったようです・・これは安心できる繋がりとは違いますよね。

そして、感謝の話や、平和な話をされると、「ウザイ」と、その人自身を攻撃したくさえなっていました・・(汗)

凄い今だから分かる「苦しい人」そのものです・・

沢山苦しい人として生きてきたからこそ、どちらの気持ちも経験済みです。

悪口マシーンの私にこそ、愛をおくる

荒れて、不安で、本当は怖くて自信もなくて、緊張して生きているからこそ、こう言った話題が唯一のストレス発散になっているとしたら・・

一番優先して「この状態の自分」に気づいてケアしてあげましょう。

目線が同じ人との中でここに気付くのは難しいかもしれません・・より強調されて、自分がいかに正しくて、相手がいかに間違っているかに突っ走るからです。ここから愛を自分に送ることは無理。(とは断言できませんが、難しいです)

自分に愛を送るとは、何かを買うとか、どこかに行くとかではなく

ジャッジのない場所=善悪、損得、これで受け入れられるか、必要とされるか、愛されるか、安全か危険かと言う「二つの対象」で考えるのではない場所で自分を包んであげることから始まります。

覚えておきたい自我の特性

自我は常に「これで大丈夫?」「私は正しいよね」「相手のせいだよね」と自分が被害者でいないと正々堂々と怒りや相手を責めることができないため、自分を正当化し、大義名分を探します。

もちろん、それがダメとかいけないと言う話ではありません。私も時々今もしますが、それを充分気づいた上でそうする自分を許しています。何が違うかと言えば「自分がどんな自分だから、この話題に盛り上がっているか」が見えていること。

誰かを責めている世界に安堵がないことだけはちゃんと知っていています。

相当抑圧されているエネルギーを見つけてあげよう

抑圧されているエネルギーはどうしてケアするのが難しいかといえば、「出せるもの」だったら出しているし、「言えるもの」だったら言っていて、今まで溜め込んでいないはずなのです。

何らかの自分特有の意味づけ(解釈)で出したらまずいことが自分の中で紐づけられているからこそ、出せずに燻って溜まって、抑えているものだからです。

小さめな最近の抑圧でしたら自分でもケアは充分可能ですが(そして、心の土台がなるべく健康であれば)心の土台が不健康で長い間の抱えているものであれば、またはトラウマであれば、自分でケアするのは難しいかもしれません。

溺れている自分が自分を救出するのが難しいように=その自分を助けられるなら、溺れているとは言えないですし、長年の愛着のテーマなどは自律神経も巻き込んで脳の回路からのケアもすることになっていくでしょう・・

私たちは多面体

でも・・私たちは全員がどこかで「愛」「平和」「優しさ」を知っています。自分という存在が球体で、ミラーボールのように多面体で、いろいろな面を併せ持った存在だとしたら、ある面は黒くて割れていても、ある面はキラキラ輝いていたりします。

愛を知っている自分と繋がったときに、いかに誰かを責めているときの自分と違うかがよく分かると思います。

その時に「こんな自分は本当は辛いよね」「何が苦しいの?」「どうしたかったの?」「その時にどうしてそれができなかったの?」など、優しい自分が不満を持っているヤサグレた自分に問いかけてあげると良いでしょう・・・

これが起きているだけ

誰にも見つけてもらえず、誰にもわかってもらえなかったからこそ、目線が同じ人に出会えた時に嬉しくて共鳴して盛り上がっているだけなのです。

愛から離れた自分に「戻っておいで」「ずっと一人にさせていたね」と受け入れてあげられる平和な自分がいたら、その時はチャンスです。

※心理学、非二元、セラピーなどは全て「溝口あゆかさん」から学んでいます。

あゆかさんとのつながりは2006年ごろからで、講座、ロンドンコース、勉強会、非二元のお話会など、参加回数、アシスタント回数は一番多い方に入ると思います。

提唱されている「インテグレイテッド心理学」は提供の全てのベースになっています(非二元(悟り)と自我の仕組みがベース)

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